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先祖のことをほぼネットだけで調べている無精者です。引用させていただいた皆様、本当にありがとうございます。上のロゴは、我が家の家紋 『丸に隅立四目結』 です。 この家紋にも先祖の秘密が隠されていました。


by chabthegreat
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三代~十四代

い、いなくなった・・・(笑)
三代目からはまったく検索に引っかからないのである。
# by chabthegreat | 2007-08-22 19:52 | 三代~十四代
さて霜月騒動で自害して果てた二代目景家である。
安達泰盛方だったわけだから、仇は得宗家御内人平頼綱。
この人を調べてみたら、驚いた。
川添昭二 「日蓮と北条時宗の被官平頼綱」(『日蓮とその時代』.山喜房佛書林.平成11年.p310以下)の5段落目以降をご覧いただきたい!
何とこの平頼綱は、初代高野時家の時に触れた日蓮の文永の法難の直接の指揮を執った人物で、日蓮を斬ろうとしたらしい。このとき平頼綱は侍所所司だそうだから、生前の時家爺さんの方が偉かったわけだけど。
世間は狭いなあ、というか、まあ、当時の鎌倉市内での話しだからね(笑)。

そういうわけで整理すると、こうなるなあ。
・おそらく真言律宗の熱心な信者であった初代時家じいさんが評定衆だったころ、日蓮は鎌倉で盛んに旧来の宗派とそれを庇護する幕府を攻撃していた。
・時家じいさんが亡くなった直後の1271年に、時の侍所所司平頼綱が日蓮を逮捕、さらには斬殺まで企てた上、佐渡に配流している。
・その後、平頼綱は日蓮に会って蒙古襲来の予言を聞いたりしている。
・時を経て1285年。平頼綱と安達泰盛が衝突する霜月騒動がおき、安達泰盛は敗死。連座した我が家の二代目高野太郎左衛門景家は自害して果てる。

初代時家じいさんが亡くなってから14年。この間にどんなことがあったんだろうなあ。
残念ながら二代目景家のことは、これ以上検索しても出てこない。
そういうわけで、次回からは三代目高野伊賀守知員へと話は展開する・・・予定。
だって、三代目くらいになってくると、検索しても出てくるかどうか。
そうは言っても、室町、戦国、江戸時代と面白いエピソードがあるから、乞うご期待!
# by chabthegreat | 2007-08-21 20:08 | 二代 景家
さて、親父も倅も孫までも伊賀守なのに、なぜかひとりだけ左衛門尉の景家である。
「高野景家」で検索してもヒットはゼロ。八田知家や高野時家の時はたくさん出てきたのに。
やっぱり影が薄いのかなあ、と思いつつ、時家を調べたときの学習効果で「小田時家」で検索すると、ひとつだけヒット!
「日本中世史アーカイブズ」に凝念自筆『梵網戒本疏日珠鈔』紙背文書(ぎょうねんじひつ ぼんもうかいほんそにっしゅしょう しはいもんじょ)が掲載されている中、弘安8年(1285)11月17日「安達泰盛乱自害者注文」という古文書があるのだ。。。あーーー、長い(笑)。
これは安達泰盛の乱、すなわち霜月騒動で自害した人々の名前が連綿と書いてある古文書だ。この古文書に関する解説記事の中で、「犠牲者の中には、有力御家人であった伴野氏(小笠原氏嫡)、八田一族の小田氏・田中氏、武藤氏、足利氏、三浦氏、二階堂氏なども見える。」と記されている。出た!八田一族の小田氏だ!
そして同じ解説記事の中で、「実名比定が可能な者」のひとりとして、「殖田又太郎入道:小田景家」となっている!う、殖田又太郎入道???
しかし、そこで気が付いた!同じ古文書の中で殖田又太郎入道の数人あとに、「筑後伊賀四郎左衛門尉  同子息」と見えるではないか!吾妻鏡の中で時家は、時に筑後、時に伊賀と呼ばれ、「筑後伊賀の前司」という呼び方もあったぞ!
そこであらためて「筑後伊賀四郎左衛門尉」で検索すると、「歴史チップス」に出典は明らかにされていないが「霜月騒動の主要死亡者」が一覧になっており、又太郎入道は大江広元の子孫で殖田泰広とされている。そして、筑後伊賀四郎左衛門尉は伊賀景家とされているのである!
なんと!二代目は霜月騒動で安達泰盛に味方し、自害して果てていたのだ!しかも「同子息」ということは三代目になるべき人も自害したことになる。
うへぇ、偉くなれるわけがない!

霜月騒動とは、元寇後の御家人を救済しようとした安達泰盛と、北条得宗家の権力伸張を図った御内人平頼綱とが1285年に鎌倉市内で起こした武力衝突だ。
ここで登場した先祖の仇、平頼綱が意外な展開を見せる、と予告して今回は幕!
# by chabthegreat | 2007-06-21 20:24 | 二代 景家
さて、親父も倅も孫までも伊賀守なのに、なぜかひとりだけ左衛門尉の景家である。
「高野景家」で検索してもヒットはゼロ。八田知家や高野時家の時はたくさん出てきたのに。
やっぱり影が薄いのかなあ、と思いつつ、時家を調べたときの学習効果で「小田時家」で検索すると、ひとつだけヒット!
「日本中世史アーカイブズ」に凝念自筆『梵網戒本疏日珠鈔』紙背文書(ぎょうねんじひつ ぼんもうかいほんそにっしゅしょう しはいもんじょ)が掲載されている中、弘安8年(1285)11月17日「安達泰盛乱自害者注文」の記事があるのだ。。。あーーー、長い(笑)。
これは安達泰盛の乱、すなわち霜月騒動で自害した人々の名前が連綿と書いてある古文書だ。この古文書に関する解説記事の中で、「犠牲者の中には、有力御家人であった伴野氏(小笠原氏嫡)、八田一族の小田氏・田中氏、武藤氏、足利氏、三浦氏、二階堂氏なども見える。」と記されている。出た!八田一族の小田氏だ!
そして同じ解説記事の中で、「実名比定が可能な者」のひとりとして、「殖田又太郎入道:小田景家」となっている!う、殖田又太郎入道???
しかし、そこで気が付いた!同じ古文書の中で殖田又太郎入道の数人あとに、「筑後伊賀四郎左衛門尉  同子息」と見えるではないか!吾妻鏡の中で時家は、時に筑後、時に伊賀と呼ばれ、「筑後伊賀の前司」という呼び方もあったぞ!
そこであらためて「筑後伊賀四郎左衛門尉」で検索すると、「歴史チップス」に出典は明らかにされていないが「霜月騒動の主要死亡者」が一覧になっており、又太郎入道は大江広元の子孫で殖田泰広とされている。そして、筑後伊賀四郎左衛門尉は伊賀景家とされているのである!
なんと!二代目は霜月騒動で安達泰盛に味方し、自害して果てていたのだ!しかも「同子息」ということは三代目になるべき人も自害したことになる。
うへぇ、偉くなれるわけがない!

霜月騒動とは、元寇後の御家人を救済しようとした安達泰盛と、北条得宗家の権力伸張を図った御内人平頼綱とが1285年に鎌倉市内で起こした武力衝突だ。
ここで登場した先祖の仇、平頼綱が意外な展開を見せる、と予告して今回は幕!
# by chabthegreat | 2007-06-21 20:22 | 二代 景家
ご無沙汰してます。ご先祖様。1年以上ぶりの更新!
この1年は忙しかったからなあ。。。ブツブツ。。

というわけで、長かった初代時家じいさんを終えて、第二代高野太郎左衛門景家であーる。
前掲の『新編常陸国誌』には次のように記述されている。

 ・・・(時家に関する記事)・・・四子景家、知通、家元ト曰フ、(分脉)太郎景家ノ子知員・・・

記述はたったこれだけ。とほほ。
大体さあ、「四子」って書いといて3人しかいないじゃん(笑)。まあ、ひとりは女の子だったんだろうな。どこかの章で書いたけど、女の子の場合、名前すら残ってないもの。。。
ところがだ!これも前掲の藤原北家系図には時家の子供が4人いる!
でもね、、、なぜか景家がふたりいるんだ(笑)。確かに時家の子供は4人なのだが、家元、景家、景家、知道と、景家はふたりいるわ、ビミョーに漢字も違っているわ。。。わはは。

さらにさらに、例の吾妻鏡である。1263年(弘長3年)8月9日の記事に、将軍上洛の随兵として「伊賀筑後四郎左衛門の尉景家」の名前が見える。あ、こりゃ二代目と見て間違いなさそうだ!うーーーーん、でも、太郎じゃなくて四郎なんだよなあ。。。

家計図と吾妻鏡で「左衛門」は一致している。
Wikipediaで「左衛門尉」を見ると、鎌倉時代以降、有名無実化した官職で武士が好んでつけたそうな。確かに吾妻鏡でもそこらじゅうに溢れかえるほど左衛門尉がいるのだ。
つまり・・・・偉くない(笑)。
この人の父親も息子も孫も「伊賀守」なのに、なぜかこの人だけ「左衛門尉」なのである。
なぜなんだろう・・・と、謎を残して次回に続く!
# by chabthegreat | 2007-06-20 20:40 | 二代 景家