八田知家(その3)
2005年 03月 09日
いやあ、すっかりサボってしまった。まだ初代まで行ってないってのに(笑)。
さてさて八田知家である。さすがに色々情報があるのだ。
1.八田知家の出自
これには「義朝実父説」と「それは後代の作り話説」がある。
前者は概ね、「平治の乱に敗れた義朝の子らは全国に散ったが、知家は外祖父(母親方のおじいちゃん)である宇都宮宗綱に育てられ、養子となった」というものである。コメントを寄せてくださった児島さんはじめ、これに類する記述が多く見られるようだ。
一方の「それは後代の作り話説」にも決定的な論拠はないように思える。ネットサーフィンで見つけた中では、茨城県の県立高校の教諭である雨谷昭先生の論述が詳しい。
雨谷昭先生 「八田知家考-系譜的研究1」
うーむむ、これはどちらにも決定力は無いなあ。スコアレスドローって感じかなあ(笑)。
2.歴史に登場する八田知家
初めて登場するのは「保元物語」で、「吾妻鏡」には頻繁に登場するらしい。
・・・らしい、というのは、この二つなら手に入るだろ!とは思うものの、古文を地道に読む時間も自信もなくて。とほほ。現代語訳は出てないかなあ←こういう態度じゃあかんよなあ(笑)。
3.有力御家人だったらしい
なにしろ頼朝挙兵時からつきしたがい、範頼とともに西国を転戦しているし、後には東海道将軍となって奥州征伐にも赴いている。牛久町史のサイトによると鎌倉の八田知家邸は幕府の南門のすぐ前にあったらしいのだ。これを見ると幕府の周囲に有力御家人の屋敷が立ち並んでいる。防衛の意味もあったんだろうな。知家は勝手に朝廷から官位を授かって頼朝に怒られたこともあるらしい。義経が同じことで殺されちゃったことを思うと、よほど大切にされていたか、あるいは覇権争いのライバルにはなりえないと頼朝が確信していたかなんだろうなあ。
4.常陸国守護
八田知家は常陸国の守護に任ぜられている。そこにはどうやら全国制覇を目論む鎌倉幕府の戦略があったようだ。八田知家は常陸の有力豪族である多気氏を姦計を図って滅ぼしたと伝承されている。。。あら、あら。何しろ多気氏の勢力範囲だったところでは評判が悪いみたいだわい。常陸国で彼は小田城を築城し、居城とした。彼の子孫には「小田」を名乗った系統がある。
5.過去帳のマチガイ
過去帳では八田知家は「筑前守」になっている。前述の雨谷先生の論述によると、これは「筑後守」のマチガイらしい。後にいろいろ調べていると、確かに彼は「筑後入道」と呼ばれることが多々あるのだ。このマチガイがどこで起きたのかは、いまのところ定かではない。私の手元に有るのは、私の祖父が書き写してくれたものだから、そこで転記ミスが起きているのかもしれないのだ。
さあてさて、いよいよ八田知家が「小田」城を築城し、後に「小田」姓を名乗った子孫もいたというところまできた。次回からはいよいよ初代高野十郎伊賀守時家の登場と相成ります。
さてさて八田知家である。さすがに色々情報があるのだ。
1.八田知家の出自
これには「義朝実父説」と「それは後代の作り話説」がある。
前者は概ね、「平治の乱に敗れた義朝の子らは全国に散ったが、知家は外祖父(母親方のおじいちゃん)である宇都宮宗綱に育てられ、養子となった」というものである。コメントを寄せてくださった児島さんはじめ、これに類する記述が多く見られるようだ。
一方の「それは後代の作り話説」にも決定的な論拠はないように思える。ネットサーフィンで見つけた中では、茨城県の県立高校の教諭である雨谷昭先生の論述が詳しい。
雨谷昭先生 「八田知家考-系譜的研究1」
うーむむ、これはどちらにも決定力は無いなあ。スコアレスドローって感じかなあ(笑)。
2.歴史に登場する八田知家
初めて登場するのは「保元物語」で、「吾妻鏡」には頻繁に登場するらしい。
・・・らしい、というのは、この二つなら手に入るだろ!とは思うものの、古文を地道に読む時間も自信もなくて。とほほ。現代語訳は出てないかなあ←こういう態度じゃあかんよなあ(笑)。
3.有力御家人だったらしい
なにしろ頼朝挙兵時からつきしたがい、範頼とともに西国を転戦しているし、後には東海道将軍となって奥州征伐にも赴いている。牛久町史のサイトによると鎌倉の八田知家邸は幕府の南門のすぐ前にあったらしいのだ。これを見ると幕府の周囲に有力御家人の屋敷が立ち並んでいる。防衛の意味もあったんだろうな。知家は勝手に朝廷から官位を授かって頼朝に怒られたこともあるらしい。義経が同じことで殺されちゃったことを思うと、よほど大切にされていたか、あるいは覇権争いのライバルにはなりえないと頼朝が確信していたかなんだろうなあ。
4.常陸国守護
八田知家は常陸国の守護に任ぜられている。そこにはどうやら全国制覇を目論む鎌倉幕府の戦略があったようだ。八田知家は常陸の有力豪族である多気氏を姦計を図って滅ぼしたと伝承されている。。。あら、あら。何しろ多気氏の勢力範囲だったところでは評判が悪いみたいだわい。常陸国で彼は小田城を築城し、居城とした。彼の子孫には「小田」を名乗った系統がある。
5.過去帳のマチガイ
過去帳では八田知家は「筑前守」になっている。前述の雨谷先生の論述によると、これは「筑後守」のマチガイらしい。後にいろいろ調べていると、確かに彼は「筑後入道」と呼ばれることが多々あるのだ。このマチガイがどこで起きたのかは、いまのところ定かではない。私の手元に有るのは、私の祖父が書き写してくれたものだから、そこで転記ミスが起きているのかもしれないのだ。
さあてさて、いよいよ八田知家が「小田」城を築城し、後に「小田」姓を名乗った子孫もいたというところまできた。次回からはいよいよ初代高野十郎伊賀守時家の登場と相成ります。
by chabthegreat
| 2005-03-09 21:26
| 八田知家