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先祖のことをほぼネットだけで調べている無精者です。引用させていただいた皆様、本当にありがとうございます。上のロゴは、我が家の家紋 『丸に隅立四目結』 です。 この家紋にも先祖の秘密が隠されていました。


by chabthegreat
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第二代 高野太郎左衛門景家(その1)

さて、親父も倅も孫までも伊賀守なのに、なぜかひとりだけ左衛門尉の景家である。
「高野景家」で検索してもヒットはゼロ。八田知家や高野時家の時はたくさん出てきたのに。
やっぱり影が薄いのかなあ、と思いつつ、時家を調べたときの学習効果で「小田時家」で検索すると、ひとつだけヒット!
「日本中世史アーカイブズ」に凝念自筆『梵網戒本疏日珠鈔』紙背文書(ぎょうねんじひつ ぼんもうかいほんそにっしゅしょう しはいもんじょ)が掲載されている中、弘安8年(1285)11月17日「安達泰盛乱自害者注文」の記事があるのだ。。。あーーー、長い(笑)。
これは安達泰盛の乱、すなわち霜月騒動で自害した人々の名前が連綿と書いてある古文書だ。この古文書に関する解説記事の中で、「犠牲者の中には、有力御家人であった伴野氏(小笠原氏嫡)、八田一族の小田氏・田中氏、武藤氏、足利氏、三浦氏、二階堂氏なども見える。」と記されている。出た!八田一族の小田氏だ!
そして同じ解説記事の中で、「実名比定が可能な者」のひとりとして、「殖田又太郎入道:小田景家」となっている!う、殖田又太郎入道???
しかし、そこで気が付いた!同じ古文書の中で殖田又太郎入道の数人あとに、「筑後伊賀四郎左衛門尉  同子息」と見えるではないか!吾妻鏡の中で時家は、時に筑後、時に伊賀と呼ばれ、「筑後伊賀の前司」という呼び方もあったぞ!
そこであらためて「筑後伊賀四郎左衛門尉」で検索すると、「歴史チップス」に出典は明らかにされていないが「霜月騒動の主要死亡者」が一覧になっており、又太郎入道は大江広元の子孫で殖田泰広とされている。そして、筑後伊賀四郎左衛門尉は伊賀景家とされているのである!
なんと!二代目は霜月騒動で安達泰盛に味方し、自害して果てていたのだ!しかも「同子息」ということは三代目になるべき人も自害したことになる。
うへぇ、偉くなれるわけがない!

霜月騒動とは、元寇後の御家人を救済しようとした安達泰盛と、北条得宗家の権力伸張を図った御内人平頼綱とが1285年に鎌倉市内で起こした武力衝突だ。
ここで登場した先祖の仇、平頼綱が意外な展開を見せる、と予告して今回は幕!
by chabthegreat | 2007-06-21 20:22 | 二代 景家