ところでここでもうひとつの疑問。
この時代、「伊賀守」ってのは本当に「伊賀国の国司」だったのか?
つまり仕事として伊賀の政治を司っていたのかな?
これはよくわからなかった。
平安時代にはすでに現地に行かない国司が相次ぎ、現地にいる人を受領と呼んだっていうくらいだから、時家が伊賀に行ったことが無くたって、何の不思議も無い。それに頼朝が各国に守護・地頭を置くことを朝廷に認めさせてからは、地方は国司と守護・地頭による二重支配だったって、昔、習ったよね。ウィキペディアの「国司」の項を見ると、鎌倉時代は地頭が国司の権限に浸出していった時代であり、国司が名目だけの官職になるのは室町時代に入ってかららしい。
とすると、武士が「守」になるっていうのは、鎌倉時代にはどういう意味だったんだろう?そう言えば時家の親父さんの八田知家も常陸国の守護だけど筑後守だったなあ。
公家と武家の二重政権だったことを考えると、公家として官位を授かり俸給を受け、武家として別の場所を治めて収入を得ていたのかしら?
●鎌倉時代、伊賀守は伊賀の国司であったのか
●鎌倉時代の武士の中で、官位を授かっている者の立場は、
公家・武家双方の性格を同時に有していたのか
●その場合、収入はそれぞれから入っていたのか
以上は、私のようないい加減な調べ方ではわからなかったので、どなたかご教示いただければ幸いです。
ということで、次回は時家が就いていた仕事即ち「図書助」「引付衆」「評定衆」へと、話題は進むのであーる。
この時代、「伊賀守」ってのは本当に「伊賀国の国司」だったのか?
つまり仕事として伊賀の政治を司っていたのかな?
これはよくわからなかった。
平安時代にはすでに現地に行かない国司が相次ぎ、現地にいる人を受領と呼んだっていうくらいだから、時家が伊賀に行ったことが無くたって、何の不思議も無い。それに頼朝が各国に守護・地頭を置くことを朝廷に認めさせてからは、地方は国司と守護・地頭による二重支配だったって、昔、習ったよね。ウィキペディアの「国司」の項を見ると、鎌倉時代は地頭が国司の権限に浸出していった時代であり、国司が名目だけの官職になるのは室町時代に入ってかららしい。
とすると、武士が「守」になるっていうのは、鎌倉時代にはどういう意味だったんだろう?そう言えば時家の親父さんの八田知家も常陸国の守護だけど筑後守だったなあ。
公家と武家の二重政権だったことを考えると、公家として官位を授かり俸給を受け、武家として別の場所を治めて収入を得ていたのかしら?
●鎌倉時代、伊賀守は伊賀の国司であったのか
●鎌倉時代の武士の中で、官位を授かっている者の立場は、
公家・武家双方の性格を同時に有していたのか
●その場合、収入はそれぞれから入っていたのか
以上は、私のようないい加減な調べ方ではわからなかったので、どなたかご教示いただければ幸いです。
ということで、次回は時家が就いていた仕事即ち「図書助」「引付衆」「評定衆」へと、話題は進むのであーる。
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by chabthegreat
| 2006-01-18 21:42
| 初代 時家 11〜15