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先祖のことをほぼネットだけで調べている無精者です。引用させていただいた皆様、本当にありがとうございます。上のロゴは、我が家の家紋 『丸に隅立四目結』 です。 この家紋にも先祖の秘密が隠されていました。


by chabthegreat
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ところでここでもうひとつの疑問。
この時代、「伊賀守」ってのは本当に「伊賀国の国司」だったのか?
つまり仕事として伊賀の政治を司っていたのかな?
これはよくわからなかった。

平安時代にはすでに現地に行かない国司が相次ぎ、現地にいる人を受領と呼んだっていうくらいだから、時家が伊賀に行ったことが無くたって、何の不思議も無い。それに頼朝が各国に守護・地頭を置くことを朝廷に認めさせてからは、地方は国司と守護・地頭による二重支配だったって、昔、習ったよね。ウィキペディアの「国司」の項を見ると、鎌倉時代は地頭が国司の権限に浸出していった時代であり、国司が名目だけの官職になるのは室町時代に入ってかららしい。

とすると、武士が「守」になるっていうのは、鎌倉時代にはどういう意味だったんだろう?そう言えば時家の親父さんの八田知家も常陸国の守護だけど筑後守だったなあ。
公家と武家の二重政権だったことを考えると、公家として官位を授かり俸給を受け、武家として別の場所を治めて収入を得ていたのかしら?

●鎌倉時代、伊賀守は伊賀の国司であったのか
●鎌倉時代の武士の中で、官位を授かっている者の立場は、
 公家・武家双方の性格を同時に有していたのか
●その場合、収入はそれぞれから入っていたのか

以上は、私のようないい加減な調べ方ではわからなかったので、どなたかご教示いただければ幸いです。

ということで、次回は時家が就いていた仕事即ち「図書助」「引付衆」「評定衆」へと、話題は進むのであーる。
# by chabthegreat | 2006-01-18 21:42 | 初代 時家 11〜15
時家じいさんの官位は、「従五位下伊賀守」である。
これってどのくらい偉いんだろう?
このところウィキペディアに頼りきりだな(笑)。だって、すごいんだもん。
というわけでウィキペディアで「官位」を調べると、なるほど「官職」と「位階」がマトリックスになってる。「守」は国司で「従五位上~従六位下」に当たる。他の資料を調べると伊賀は下国なので従六位下になる。つまり、「従五位下」が正しいのなら「上国守」であるはずであり、「伊賀守」が正しいのなら「従六位下」であるはずなのだ。それではなぜ時家は「従五位下」で「伊賀守」なのか。

そこは同じくウィキペディアの「官位」の項にあるとおり、「官職」と「位階」の対応には幅があったんだろうな。また時代によって官位相当も変わったと記されている。考えてみれば、官位制自体は大宝令・養老令で確立したというのだから、時家の時代までにすでに500年も経っているのだ。ひとつのシステムが500年もの間、厳密に運用されているはずが無い。もうこの時代には日本的曖昧さでもって、「従五位下だけど、伊賀守のまんまでいいかー」っていう程度だったのかもしれないなあ(笑)。

それよりも、同じくウィキペディアの「官位」の項にある記述、「従五位下・・・以上は、昇殿を許されたため殿上人・・・と呼んだ」の方がびっくりなのだ。時家は殿上人だったってことかあ?え、偉いじゃんか!そりゃあ、宮殿に入れば一番下っ端ってことだし、そもそも国司は中級貴族の仕事だったらしいから、貴族の中では大したことはないんだろうけど、武士でありながらここまでいったんだから相当偉いぜ、これ。すげえなあ。
# by chabthegreat | 2006-01-16 22:25 | 初代 時家 11〜15
藤原頼経をさっそくGoogleしてみると・・。
なんと鎌倉幕府第4代将軍なのである。
なーるほど。鎌倉幕府の将軍と言ったら、3代実朝までしか知らないもんね。
後は執権の名前しか歴史の教科書には出てこない。いや、出てきたかもしれないけど忘れちゃったよ。実は執権とは別に征夷大将軍がいたんだったね。
藤原頼経についてはWikipediaの藤原頼経の項に詳しく掲載されている。
なるほどねー。時家じいさんが従五位下に取り立てられ伊賀守に任ぜられた年、頼経の方は8歳で征夷大将軍になってから12年、年齢は満20歳で「検非違使別当右衛門督兼任。民部卿止める。ついで、権大納言。同年辞任。 」というわけだ。いかにも京都に行ってそうなトピックスだな。
さらにこの年すなわち暦仁元年は鎌倉の大仏様の建立が始まった年であり、時の執権は征夷大将軍藤原頼経よりずっと有名な北条泰時なのであーる。
実は後に詳述するが、時家じいさんの生没年はどうやら1200~1271年らしいのだ。結局、我が家の過去帳は間違っているってことなんだけど。生年がわかるとこんなことがわかるのだ。
つまりだ。時家が生まれた時にはすでに鎌倉幕府は成立していて、21歳のときに承久の乱がおき、32歳のときに御成敗式目が制定された。そして鎌倉の大仏様が造られはじめた年に、38歳で従五位下伊賀守になっている。さらに59歳で引付衆、64歳で評定衆になっているのだ。
21歳の時家は、有名な北条政子の演説を聴いたのだろうか。京都へ向けて出陣したのだろうか。32歳の時家は、武士にとっての初めての法典である御成敗式目をどんな思いで読んだのだろう。40歳くらいの頃に完成した金色の大仏様を見上げて何を思ったのだろうか。なんだか、すげえな。

次回は時家じいさんの官位、つまり「従五位下伊賀守」についてとしよう。
# by chabthegreat | 2006-01-11 20:03 | 初代 時家 11〜15
だいぶサボった(笑)。そもそも高野家がどこから生まれたのかっていう話にページを割きすぎて、もう何の話だったかわからなくなってる。
そう、『新編常陸国誌』だったのだ!もう読者のみなさんは忘れてたでしょ?筆者の俺が何だったか遡って読み直したくらいなんだから。。。あははは。。。すみません 

『新編常陸国誌』巻九 氏族
 [高野]
 筑波郡高野村ヨリ起ル、知家八子時家、十郎ト称ス、高野氏タリ、仍小田氏ト称ス、(分脉)
 柿岡ニ居ル、(系図) 図書助ニ任ス、暦仁元年、将軍藤原頼経ニ従テ京師ニ至リ、
 従五位下ニ叙シ、伊賀守ニ輔シ、(東鑑)正元元年、鎌倉引付衆トナリ、文永元年、
 評定衆タリ、(系図) 
平生和歌ヲ善クシ、族宇都宮蓮生等同好ニシテ、最善ク交ル、
 (続古今 新千載 新和歌集) ・・・・

ここからは太字部分の話へと進むのであーる。西暦も調べて整理するとだな。。。

・不明            図書助就任
・暦仁元年(1238年)  将軍藤原頼経に従って上京
                従五位下伊賀守
・正元元年(1259年)  引付衆就任
・文永元年(1264年)  評定衆就任

これは今で言う職務経歴書だな(笑)。いよいよ「800年続いた由緒正しきサラリーマン家庭・高野家」らしくなってきたわい。わはは。
引付衆や評定衆ってのは、詳細は覚えちゃいないが歴史で習ったぞ。ってことは、けっこう偉くなってんじゃん!最終的には出世しているって言っても良さそうだな。
んで、藤原頼経さんってのが上司にあたるわけだ。将軍ね・・・。しょ、将軍??
# by chabthegreat | 2006-01-05 23:41 | 初代 時家 11〜15
さて、高野家はどこから出てきたのか。もう一度整理すると、

下野国説・・・高野家の過去帳
常陸国説・・・『新編常陸国誌』 常陸国筑波郡高野村
奥州説・・・・・筈衛さんより、奥州高野郡南郷

そうだ!こういうときは現場だ!現場に急行するのだ!
というわけで、さっそく茨城県に・・・住む弟に調査を依頼した(笑)
なはは。ったく、いつまで経っても人頼みなのである。
こうやってちっとも動こうとしないから太るんだよね(笑)。

11/8の日記の柿岡城の説明看板の写真は、そのときに弟一家が撮影してきてくれたものである。
さらに・・・旧筑波郡高野村と思われる辺りにも行ってくれた。
現在の茨城県つくば市高野(こうや)である。
そこで撮影された写真がこれだ!
初代 高野十郎伊賀守時家 (その11)_c0015048_15412556.jpg
おおっ!「高野十字路」だあっ!
とりあえずこういうのを目にすると常陸国説に傾くなあ。今のところ、状況証拠も多いし・・・ってぜーんぜん科学的アプローチになってない(笑)。

一方、筈衛さんからいただいた「奥州高野郡(現・福島県東白川郡)」の情報についてもネットサーフィンしてみた。残念ながら有用な情報にはヒットできなかった。
しか~し、マピオンしてみたら・・・あった!あった!
福島県東白川郡矢祭町に「高野(こうや)」という大字があるのだ!
しかも、しかもである。福島県の広~いイメージがあるから、高野時家じいさんも随分離れたところに領地を持ったんだなあと思っていたのだが・・・な、な、なんと矢祭町は福島県と茨城県の県境にある町なのである!な~るほど、どういう経緯で時家じいさんの領地ってことになったのかはわからないが、奥州広しと言えど、本拠地に一番近いところに領地をもらったんだな。
奥州高野郡が「高野」姓の発祥かどうかは置いといて、高野時家の名前が出てくるのなら何れ調べたいし、一度は訪れてみたいなあ。

そんなわけで現在のところ、少なくとも言えることは、我が家の過去帳記載の下野国説が最も分が悪いということだわい(笑)。こちらは今のところ、前述した余湖さんの「高野殿」情報だけなのである。しかも余湖さんによると、この「高野殿」は宇都宮家の家臣高野隼人に由来するらしく、時家の記述は出てこない。。。柿岡城築城の年と時家の没年の齟齬、七男と八男・・・決定的な証拠は無いけれど、こりゃあ、我が家の過去帳がまちがっとるな~(笑)。
・・・高野姓発祥の謎はこの辺にして、次回は『新編常陸国誌』のその他の情報に移ることにする。
# by chabthegreat | 2005-11-28 23:26 | 初代 時家 11〜15